ディヴェルサ・オペラ

レオシュ・ヤナーチェク

指揮 ガブリエラ・タルドノヴァー

監督 クリスチアナ・ベルクレディ


オペラは、ディヴェルサ・オペラがヤナーチェク・ブルノ2018の依頼を受け、ブルノ国民劇場との協力の下で制作。


チケット

ディヴェルサ・オペラは、キアスとドラーベクの2人の作家によるオペラの公演と、あまり知られていない20世紀の楽曲を紹介する興味深いコンサートシリーズを定期的に行うことで、ブルノの文化シーンに確固たる地位を築いています。音楽祭側とディヴェルサ・オペラは、ヤナーチェクが初めて製作したオペラ、『シャールカ』の2つの表現方法を交差させるプロジェクトで初めて協力する事になりました。コンサートの形式では、1887年当時元々の形式の作品を、ピアノ伴奏のみで上演します。舞台形式ではヤナーチェクの音楽に、オペラ・ディヴェルサ創設者であるブルノの作曲家、オンジェイ・キアスの作品とオペラ・ディヴェルサを代表するクリスチアナ・ベルクレディの監督が結びつきます。

オペラは、その当時若かった作曲家にとって初めのうちは重要な位置を占めていませんでした。しかし、1884年にブルノにチェコ人の劇場ができたことで変わり、その3年後にヤナーチェクは初めてのオペラ作品として『シャールカ』の制作に取り掛かりました。彼にインスピレーションを与えたのは、雑誌「チェスカー・ターリエ」で発行されたユリウス・ゼイエル(1841年-1901年)の歌劇「シャールカ」です。ゼイエルはここで、自作の壮大な叙事詩「ヴィシェフラド」の第4章をリブレット形式に作り変えました。これは元々、A.ドヴォジャークのために作られたものです。ヤナーチェクはゼイエルのテキストに手を加え、オペラをピアノ演奏に作り変えることに詩人の許可を仰ぎましたが、ザイエルの拒否を受けました。オペラの一部に楽器を当てるところまでしたものの、ザイエルの否定的立場が変わらないことを見て、オペラ化を断念しました。ヤナーチェクが部分的に仕上がっている譜面を思い出したのは、ほぼ30年後のことで、弟子のオスヴァルド・フルブナ(1893年-1971年)の助けを借りこれを完成させました。テキストの利用許可の問題については、1918年10月の段階で解決をさせていました。ユリウス・ゼイエルの死後、その権利を相続したチェコ・アカデミーに利用許可を申請したのです。アカデミーはその当時既に著名であった作曲家に対し、これを許可しました。1919年、ウイーンのユニヴァーサル・エディションが『シャールカ』に興味を示しましたが、オペラを出版するには、幾つかのオペラハウスでの上演が条件とされました。そして『シャールカ』の初演は1925年11月11日にブルノ国民劇場で実現されたのです。

パトリツィエ・チャーストコヴァー